『仏遺教経』 −仏陀最期の教え−『釈迦』
     『仏垂般涅槃略説教誡経』のこと

汝等比丘、当に知るべし。多欲の人、利を求めること多いが故に苦悩も亦多し。小欲の人、無求無欲にして則ち此の患い無し。直に小欲すら尚、応に修習すべし。何に況や小欲の能く諸の善功徳を生じるをや。少欲の人、則ち諂曲して以て人の意を求めること無し。亦復諸根の為に牽かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然として憂畏する所無し。事に觸れて餘り有り、常に足らざること無し。少欲ある者は則ち涅槃有り。是を少欲 と名づく。

汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。知足の法は則ち是、富楽安穏の処なり。足ることを知る人、地上に臥すと雖も、猶お安楽とす。足ることを知らざる者は、天堂に処すと雖も、また意に称わず。足ることを知らざる者は、富めりと雖も而も貧し。足ることを知る人、貧しと雖も而も富めり。足ることを知らざる者は、常に五欲の為に牽かれて、足ることを知る者の憐愍する所と為る。是を知足と名づく。

出典 「法楽寺・『仏遺教経』」のページより  http://www.horakuji.hello-net.info/horakuji/BuddhaSasana/Ekayana/yuigyoukyou/index.htm


 釈迦の履歴   ウィキペディア「釈迦」 より
紀元前624年 - 紀元前544年 : 南伝(上座部仏教)説

生涯・誕生から青年期
十六大国時代のインド(紀元前600年)釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキャのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである。2人の間に生まれた釈迦はシッダールタと名付けられた。母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中にルンビニで釈迦を生み、その7日後に死んだ。
誕生に関して「釈迦はマーヤーの脇の下から生まれた」という話と、「生まれてすぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた」という伝説とがある。


「釈迦」の生没については諸説あるが、多くの支持を得ている(らしい)最古の生没を掲げる。

仏教の伝来

インドの釈迦によってはじめられた仏教が、シルクロードを経て中国に伝わったのは紀元前後のことです。中国で根付いた仏教は朝鮮半島に4世紀から5世紀にかけて伝わります。538年(552年説もある)、百済の聖明王から仏像や経典が日本に献じられました。仏教が日本に伝わるまでおよそ1000年の月日を要しました。
出典 仏教の伝来ルート - 嵐山町web博物誌 より

足るを知れば辱められず。『老子』

思うに欲というのは人の宿す最も大きな業であり、欲にまかせ行動すれば、いまに亡者となって後世の人々から笑われる。知足の境地こそが幸福な人生をもたらすのだ。
出典 「老子の名言をまとめてみた」 より
    http://matome.naver.jp/odai/2136766780743909101
 老子の履歴   ウィキペディア「老子」 より

史記の記述

老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。

1.老子者,楚苦縣�鄉曲仁里人也,姓李氏,名耳,字耼,周守藏室之史也
2.孔子適周,將問禮於老子。(以下略)
3.老子脩道次ぢ欣椣兵・・橘尚挂魁5鐚

— 史記 卷六十三 老子韓非列傳

伝説では、老子は周を去る際、水牛に乗っていたという
これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」,字は「耼」(または「伯陽」)。楚の国の苦県(現在の河南省鹿邑県)を勤めていた。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる)に着くと、関所の役人である尹喜が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい、その後の事は誰も知らない。(「老子」『列仙伝』においては大秦国、ローマ帝国へ向かった。)

「老子」の生没も定かではないが「孔子」と同世代に生きたことは伺える