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2007/05/05書庫探訪 その3 『攝津名所圖會』 

寛政年間に刊行された難波、大坂から兵庫、須磨、有馬にいたる挿絵付きの紀行案内記で、全9巻12冊で構成されています。巻之七〜九は寛政8年、巻之一〜六は寛政10年の刊行。著者は秋里籬島、挿絵は竹原春朝斎ほか。現在の神戸市に関わる巻は、巻之七武庫郡・莵原郡(芦屋から東灘区・灘区・旧葺合区)、巻之八上・矢田部郡(須磨・長田区・兵庫区・旧生田区)、巻之九 有馬郡・能勢郡(六甲山の北)。

採録されている項目は、山川浜、村落、古城、神社仏閣や特産品の紹介にまで及んでいます。各事項に関する史実や物語、歌を広く古典籍や万葉集、勅撰集から引用し、ときには自身の歌も披露しています。挿絵も多く、当時の読者は居ながらにして旅を楽しむことができたことでしょう。


⇒ランダム・ウォーク・イン・コウベ 46

―多井畑― 

塩屋谷川の上流、鉄拐山の北に位置する多井畑は、多井畑厄除八幡宮(やくじんさん)で知られ、毎年一月の厄除大祭には夜を徹して多くの人々が参拝しています。この辺りは摂津と播磨の国境とされ、『摂津名所図会・巻八』には「太井畑(中略)これ摂播の界村なり。古は兵庫より夢野を経て山中へ入り、此田井畑を歴て播州へ出づる。これを古道越えという」と紹介されています。
ところで一説にはこの辺りに須磨の関があったと言われています。須磨の関は、例えば枕草子に「関は相坂。須磨の関.…」などと登場し、実在したと考えられますが、いつ頃、どんな形で存在したのか、はっきりしたことは知られていません。一般には須磨の関守稲荷神社か現光寺裏付近が関跡ではないかとされています。では何故、多井畑が「須磨の関」と結びつくのでしょうか。
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古代の関は、軍事・交通の要所に置かれていました。大宝令によると海上を取り締まる関として「摂津の関」があったようです。しかし当時の須磨は潮流も激しく、泊りもなかったはずであり、それを考えると「須磨の関」は海関ではなく、国境の出入りを司る陸関ではなかったかとの見方があります。また古代の関は交通の妨げになるという理由で廃止されており、延暦十四年(七九五年)逢坂の関も一旦なくなったので、それと近い時期には須磨の関も廃止されたと考えられています。
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 関があったと思われる頃、須磨の海岸付近は、鉢伏山が海に迫って絶壁をなし、通行が困難だったと想像されます。万葉集には「荒磯越す浪  をかしこみ淡路島見ずか過ぎなむここだ近きを」という歌があります。これは「淡路島をこんなにも間近にしながら波がこわいので海沿いの道を離れ山道にはいる」という意味のようです。人々は海岸を避け、多井畑を経て塩屋へ出ていたと考えられています。須磨の海岸沿いに道ができた時期には諸説ありますが、『平家物語』の「田井の畑といふふる道をへて、一の谷の浪うちぎわへぞ出たりける。一の谷近く塩屋といふ所に…」という描写や、また最初に書いた『摂津名所図会』の「古道越え」という表現は、古代の山陽道が多井畑を経由するものであった可能性を感じさせます。

『攝津國名所圖會大成』?
多井畑厄除八幡宮には「疫神塚」があり、ここは『続日本記』にでてくる、七七〇年の疫病の大流行を鎮めるため畿内十ヶ所の国境に祀られた疫神の跡、と神社では伝承しています。もしこれが確かであれば、多井畑は畿内十番目、摂播の境としての要所で、またここを播磨への道が通っていたことにもなります。こうした疫神祭は境界をつなぐ道上で行われたと考えられているからです。
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 このように考えてみると、摂播の出入り口であり、「国境」意識の高い多井畑に関があったのではないか、という仮説も成り立ちそうです。多井畑にある「セキスエ」という小字名も気になります。
 ところで岩田孝三の『関址と藩界』に、古代の関には必ず男女神の祠があり、関跡が不明でも、祠は跡を留めていることが多いので、そこから関や国境を探すことができる、とあります。興味深いことに「やくじんさん」の近くには古い夫婦の明神の祠があり、『摂津名所図会』に「むかし此田井畑を開きし夫婦の小祠」と記されています。
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 しかし関の所在を明らかにできる史料はありません。果たして関はどの辺りにあったのでしょうか。古代の国境としての多井畑には大変興味をかきたてられます。

K O B E の 本 棚   第46号 平成16年2月20日
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/070/hon_46/index.html


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