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「笈の小文」
 須磨
  月はあれど留守のやう也須磨の夏
  月見ても物たらはずや須磨の夏
 卯月中比の空も朧に残りて、はかなきみじか夜の月もいとゞ艶なるに、
山はわか葉にくろみかゝりて、ほとゝぎす鳴出づべきしのゝめも、海の
かたよりしらみそめたるに、上野とおぼしき所は、麦の穂浪あからみあ
ひて、漁人の軒ちかき芥子の花のたえだえに見渡さる。
  海士の顔先みらるゝやけしの花
 東須磨・西須磨・浜須磨と三所にわかれて、あながちに何わざすると
もみえず。「藻塩たれつゝ」など歌にもきこへ侍るも、今はかかるわざ
するなども見えず。きすごといふうをを網して、真砂の上にほしちらし
けるを、からすの飛来りてつかみ去ル。是をにくみて、弓をもてをどす
ぞ海士のわざとも見えず。若古戦場の名残をとゞめて、かゝる事をなす
にやと、いとゞ罪ふかく、猶むかしの恋しきままに、てつかひが峯にの
ぼらんとする。導きする子のくるしがりて、とかくいひまぎらはすを、
さまざまにすかして、「麓の茶店にて物くらはすべき」など云て、わり
なき躰に見えたり。かれは十六と云けん里の童子よりは四つばかりもを
とをとなるべきを、数百丈の先達として、羊腸険岨の岩根をはひのぼれ
ば、すべり落ぬべきことあまたたびなりけるを、つゝじ・根ざさにとり
つき、息をきらし、汗をひたして、漸雲門に入こそ、心もとなき導師の
ちからなりけらし。
  須磨のあまの失先に鳴か郭公
  ほとゝぎす消行方や島一つ
  須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ
  明石夜泊
  蛸壺やはかなき夢を夏の月
 かゝる所の龝なりけりとかや。此浦の実は秋をむねとするなるべし。
かなしさ、さびしさいはむかたなく、秋なりせば、いさゝか心のはしを
もいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。淡路嶋
手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。呉楚東南の詠
もかゝる所にや。物しれる人の見侍らば、さまざまの境にもおもひなぞ
らふるべし。
 又後の方に山を隔てゝ、田井の畑といふ所、松風村雨ふるさとといへ
り。尾上つゞき、丹波路へかよふ道あり。鉢伏のぞき・逆落など、おそ
ろしき名のみ残て、鐘懸松より見下に、一ノ谷内裏やしき、めの下に見
ゆ。其代のみだれ、其時のさはぎ、さながら心にうかび、俤につどひて、
二位のあま君、皇子を抱奉り、女院の御裳に御足もたれ、船やかたにま
ろび入らせ給ふ御有さま、内侍・局・女嬬・曹子のたぐひ、さまざまの
御調度もてあつかひ、琵琶・琴なんど、しとね・ふとんにくるみて船中
に投入、供御はこぼれて、うろくづの餌となり、櫛笥はみだれて、あま
の捨草となりつゝ、千歳のかなしび此浦にとゞまり、素波の音にさへ愁
多く侍るぞや。
出典 http://home2.highway.ne.jp/issei-s/koten01/oinoko.02.html
(記載 20020515) .