山陽道・西国(さいごく)街道関係の文献


引用
番号
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 西国街道の京都の起点は、かつて平安京南端にあった羅城門の位置に
あたる。九条通と千本通の交差点付近の小さな公園に、羅城門跡碑が建
っている。羅城門跡碑
西国から京都へ上がる道で、平安時代からある主要街道。曲がりくねった
道筋や道端の道標、石仏など往時をしのばせる風情が残っています。
 京都と西国(山陽地方)を結ぶ街道です。古来の日本の幹線道路。時代
により山陽道・山崎道と呼ばれることもあります。京都〜兵庫県西宮市は
国道171号線に似たようなルートをとって、西宮から先は国道2号線に
近いルートをとっているようです。
A
阪神間について交通に関する記述が初見されるのは、西暦112年綏靖天皇
の時代に山陽道が開かれたということです。この山陽道は後世と違い摂津
から武庫川水系を北上し、有馬郡,美嚢郡を経て播磨中央部を横断してい
ました。律令国家の施策として全国の国府を結ぶ街道,宿駅が整備された
飛鳥・白鳳時代には、難波宮から沿岸部を通っていました。平安時代に入
り都が京都に移ると、山陽道は現在の国道171号のように茨木方面から
西宮方面へ斜め横断し、打出(芦屋市:阪神高速神戸線芦屋入口付近)か
ら元の街道へ合流し、現在の国道43号に沿う「浜街道」と国道2号方面
に西北上する「本街道」に分かれました。土地区画整理事業等でかなり景
観は変化しましたが、「打出」付近から「茶屋之町」には現在でも街道の
雰囲気を残す佇まいが散見できます。また、箕面から宝塚へ出て現在の国
道176号にほぼ沿い船坂,山口を経て、三木方面へ出る丹波路が分かれ
ていました。
 西国街道ってば、京阪神に住む人はたいてい国道171号線(俗称:いな
いち)を思い出す。“いないち”の別称みたいなもんだ。西国街道は古く
奈良時代からあって、奈良や京都から西国に向かう街道だった。時代によ
り場所により、山陽道、中国道と同じだったり、ルートが変わったりとか、
結構複雑みたいだ。ここは芦屋の打出
 古代、都と九州の太宰府(だざいふ)を結ぶ幹線道路が整備され、 山陽
道(さんようどう)と呼ばれていましたが、江戸時代になり、 中国・九州
地方(西国)と近畿地方を結ぶ道として西国街道と呼ばれるようになり、
多くの人々が行き交いました。
 西国街道は、現在に残る道筋によって、その跡をたどることができます。
 京都から国道171号沿いを進み、西宮から海岸沿いを芦屋市の打出(うち
で)まで来ると、 内陸部を進む「本街道(ほんかいどう)」(大名行列な
どが利用)と海岸沿いの「浜街道(はまかいどう)」(庶民が利用)に分か
れ、 再び、現在の三宮駅のすぐ南西あたりで合流し、西へと向かいます。
 現在、JR三ノ宮駅のすぐ南東に「西国街道の碑」が建てられています。
地域別・街道別関連書籍一覧   田中義巳の街道文庫・蔵書目録
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西国街道■大阪から赤間関(あかまがせき)(山口県下関市)に至る西日本の
交通の大動脈で、古代・中世の山陽道を基礎に江戸時代に整備された。広島
県では神辺、尾道、本郷、海田、廿日市、玖波など11カ所に宿駅が置かれ、
西国諸大名の参勤交代などでにぎわった。西国街道
●西国街道とは・・・
西国街道は、古代には山陽道といわれ、日本の中心であった都と朝鮮半島と
の玄関口であった九州の大宰府とを結ぶ一番重要な幹線道路として発展して
きました。その後、近世には、畿内と西国(九州の小倉)を結ぶ道としてに
ぎわっていました。
そのルートは時代の移り変わりにより、現在では国道2号や国道43号など
に姿を変え、戦災や震災などの被害もあり周辺の街なみも大きく変わってし
まいました。しかし、今でも昔の雰囲気をしのばせる神社や仏閣、道標など
歴史的遺産が点在する地域もあり、最近ではいくつかの地域で道標や説明板
を設置するなど、歴史を大切にしたまちづくり活動が行われています。
「神戸・西国街道まわり道」
リンク切れを修正または削除いたしました。 2017.04.13