「古山陽道」
 ここで言う「古山陽道」とは、山陽道の内で戦国時代の16世紀ごろに、須磨浦海岸沿いの道路が開通する以前に、利用されていた須磨から鉢伏山を北に迂回して塩屋にいたる街道のことです。 


《 古山陽道 》

 須磨の海岸沿いに道が出来るまでは
「山陽道」は海岸沿いを通らずに、須磨の千守川にそって北上し、多井畑厄神をとおり、塩屋谷川にそって南下して塩屋に出る、鉢伏山迂回道を通っていました。戦国時代の軍用道路として16世紀のころに須磨浦の地に山陽道を付け替えてから、海岸沿いに往来ができるようになりました。
 いまはこの「古山陽道」は拡幅された道路の下などになって、ほとんどが消滅してしまいましたが、まだ垂水区下畑町のまちなかにその一部分が残っていると言われています。


《 明石の櫛淵 》

 では、なぜ山陽道が、須磨の海岸沿いを通って塩屋にいけなかったのでしょうか。それは、境川と塩屋谷川の間に、須磨浦山系の尾根筋が海に迫り出していて、その先が海に向かって櫛の歯のようになっていて、到底歩いて通れなかったような難所だったようです。
今は、鉢伏山の南裾野の狭い場所に、特に「菅公橋の付近は、JR山陽本線・JR神戸線・山陽電車・国道2号線と、所狭しと狭い隙間に通っています。そのことからしてもこの地は交通の要所といえますが、その昔は通行の難所だったのです。 
「明石の櫛淵(くしぶち)」


《 須磨の浦 》

 平家が源氏との合戦に備えて須磨浦に陣取ったのは、前(南)は海で平家の水軍が守り、後(北)は鉢伏山、西は明石の櫛淵、残る東は平家の領土で守りは固かったのでしょう。
 須磨の浦(今の須磨浦公園)辺りは天然の要塞だったのでしょう。それが、義経が坂を下っていく鹿を見て「鹿も四足、馬も四足」と言ったとか、一の谷を馬にまたがって下り降りて、平家陣を奇襲して大混乱に陥らせ、平家軍は命からがら海上に逃げて、四国の屋島に行ったようです。 
逆落とし


《 山陽道の付け替え 》

 では、だれがこの難所、明石の櫛淵を切り開いて、道路を付けたのでしょうか。一説によると「豊臣秀吉」が、太閤検地の折に作ったと言われています。
 大規模な土木事業ですから、かなりの権力者でしか、無理な作業でしょう。全国を統一して、往来しやすくするのも中央政権の大きな役目ですものね。

 ひょっとすると天正10年(1582年)6月2日織田信長が明智光秀に討たれた時に、秀吉が備中高梁から京都に帰る「中国大返し」の折に、山陽道を帰ってきたと思われますが、ここ、古山陽道を大軍が通るには難儀だと思ったのかも知れませんね。

 まあ、だれが付け替えたかは定かではないようですが、いろいろと思いを巡らすのも、楽しみのひとつです。